一声で、最強の知性が消えた 先週末、ひとつの AI が国家の一声で消えました。 Anthropic の最上位モデル「Fable 5」と「Mythos 5」へのアクセスが、米政府の輸出管理指令(export control directive)によって遮断された。表向きの理由は、安全機構を回避するジェイルブレイクが見つかったというもの。ただし Anthropic 自身は、その根拠は技術的に薄く、他の公開モデルでも同程度のことはできると反論しています。 CNBC や NBC News の報道によれば、これは「主要 AI 企業が、連邦政府の介入によって、すでに公開済みのモデルをオフラインにした最初のケース」と見られています。 私もこの数日、Fable を実務に突っ込んでみていたところでした。控えめに言って、これがもう手放せない「別物」になっているのを体で感じていた直後の出来事です。 事件を眺めながら、自然と思い出したのは、江戸の暦のことでした。 江戸の暦も、何度も「止められた」歴史を持っている 意外に思われるかもしれませんが、江戸時代から明治にかけて、暦は国家のかなり強い管理対象でした。 1685 年(貞享 2 年)の貞享暦改革 ── 800 年以上使われていた中国渡来の宣明暦が、累積で 2 日近い誤差を出していた。渋川春海が日本独自の天体観測に基づいて新しい暦を作り、幕府がそれを公式採用した。「暦を作って公布する権利」は幕府の専権事項だった / 江戸期を通じて、暦の出版は「暦師(れきし)」と呼ばれる限られた家にのみ許されていた。勝手に刷ると処罰された / 1873 年(明治 6 年)の改暦 ── 明治新政府が一夜にして旧暦を公式から外し、太陽暦に移行した / 同時に明治政府は、暦注下段(一粒万倍日・天赦日・神吉日などの吉凶)を「迷信」として正式な暦から削除した。これは事実上の禁止令でした ここまでだけ並べると、「やっぱり暦も国家に握られてきたじゃないか」という話に聞こえます。 でも面白いのは、その先で起きたことなんです。 公式から外されても、暦注下段は消えなかった 明治政府が暦注下段を禁止したあと、それらの吉凶日は公式の暦から消えました。 でも、民間の生活では消えなかった。お婆ちゃんの家のカレンダーに「大安」「友引」が書いてあったり、結婚式場が今でも六曜を気にしたり、不動産屋が引っ越し日を選ぶときに「三隣亡」を避けたり。 明治から数えて 150 年経った今でも、これらは普通に生き残っています。なぜなら、暦注下段の知識は、個人の頭の中と、家ごとの慣習と、地域の冠婚葬祭のなかに分散していたから。国家が公式の暦から削除しても、分散して保存されているものは止めようがなかったわけです。 情報セキュリティの言葉に翻訳すると、「中央集権的なインフラは止められるが、分散しているプロトコルは止められない」という、ごく当たり前の話に近い。 江戸の暦は、たまたまそうなったわけではなく、構造的に「止めにくい知性」になっていたんです。 止められる知性と、止められない知性 ここで Fable の話に戻ります。 Fable や Mythos のようなフロンティア AI が止められる理由は、構造的にシンプルです。 計算資源(GPU クラスタ)が一箇所に集中している / 提供主体(Anthropic)が一企業である / その企業の所在国が、強制権を持つ / だから、政府の一声でアクセスを切れる 一方、江戸の暦のような知性は構造が真逆です。 計算量は「カレンダーと電卓」レベル / 提供主体は人類全体に分散している / 知識は本・家系・冠婚葬祭・神社の慣習に保存されている / 止めようがない これは優劣の話ではなく、性質の違いの話です。フロンティア AI には、人類の総合判断力を超えるかもしれない可能性がある。江戸の暦には何百年もの長期実証データがある。両者は別の役割を持っています。 ただ、今回 Fable が一声で止まったことは、「フロンティア AI を握れるかどうかが、住む場所や立場で決まる時代」が現実に始まっていることを示しています。アクセスできる人とできない人とでは、見えている世界そのものが変わっていきます。 自分の中に観測装置を持つということ 道具は、与えられるものではなく、握り続けるもの。 そう書いてみて、しみじみ思います。 知性が国家の戦略資源になった時代に、いちばん消えにくいのは、自分の中に観測装置を持っておくことです。江戸の暦を読めるリテラシー。自分の出生図のリズムを把握しておくこと。AI が止まったときに、自分の判断軸を語れる言葉を持っておくこと。 これらは、一行のコマンドで消える種類のものではありません。 国家の一声で道具が消える時代になりました。だからこそ、自分の手の中に何を残しておくか、長いスパンで考え直してみる週末でした。 明日からも、暦を一緒に観測していってください。